旅の小説「旅社に響く悲鳴」十数年前の中国のホテルは私たち外国人にとって二つに分類することができる。それは、外国人が泊まれるかどうかと言うことだ。 香港人と台湾人は同朋と言うことでどちらにも宿泊が可能だ。 中国のホテルはクラスによって大飯店、酒店(酒家)、賓館、招待所、大旅社、旅社という。 おもに外国人に開放されているホテルは大飯店から賓館クラスまでで、招待所や旅社中国人専用になっていた。 桂林に始めて行った時、列車に乗り合わせたフランス人M氏と友達になり桂林を二人観光することになった。 私は桂林の地図を持っていなかった。(中国を旅行する時はたいがい地図は持たないで旅行をする。なぜなら、漢字で書かれた地図が駅前で安い価格ですぐに手に入るからだ)M氏のもっているバックパッカー用のガイドブック(これを真似て日本でも地球のなんとかという本がある)を参考に、七星公園、伏波山、象鼻山と見てまわった。どれもこれも観光名所的で私にとってはたいして印象には残らなかった。しかし、遠くに見える山並みはどこもが水墨画であり、心に残る風景であった。どこへも行かないでちょっとした高台からそのような景色を眺めるのが桂林での一番の観光に思えた。 宿泊に関してもそのガイドブックを参考に探し回る。が、さすがに世界に名だたる観光地だ。どこも空いていない。ガイドブック片手のバックパッカーで満杯なのだ。 そこで、漢字が読めて少し中国語ができる私が、今度は飛び込みで探すことになった。町外れの、いかにも安そうな旅社。周りには外国人の姿がまるっきり見えない。フランス人が珍しいのか興味の目があちらこちらから飛んでくる。 宿のおやじに私は聞いた。 「有没有?」(ありますか) おやじ曰く、「有」(ある) 「多少銭?」(いくら) おやじがぶっきらぼうに答える「四十元」 と、ここまではたいして会話らしい会話ではなのだが、そばで聞いていたM氏にとっては、私が中国語の達人に写ったらしい。それから、M氏が私を見る目つきが変わったように思えた。 部屋は狭いスペースにベッドが二つと小さなテーブルが一つきりで風呂無しトイレが共同になっていた。 部屋に案内しているわずかな時間であるが、その間におやじは外国人に慣れたのか愛想が良くなっていた。とりあえず、機嫌の良くなっているおやじに前金を払い、荷物を部屋において夕食をしに外に出た。 このあたりは町外れというせいもあってM氏が通るたびに人々の視線と顔が動く。 夕食は焼きそばと餃子を食べた。 彼は餃子が気に入ってしまった。私が餃子の漢字を紙に書き、読み方も教えた。彼は、何度も繰り返し口に出して言っていた。 宿に戻って、彼がトイレに行った。しばらくして彼が驚きの表情で戻ってきた。恐ろしい悲鳴が聞こえて来たので驚いていってみると、そこは風呂場だった。そっと覗いてみると中国人と思える男の人が悲鳴を上げながら水をかぶっていたと言うのであった。 早春のここ桂林では、まだ気温が一桁前半である。 それを聞いて、今日は風呂はよそうと二人共に言っていた。 翌朝私は、駅前からバスで陽朔(船で行く離江下りの終着地)に行く予定である。離江下りは料金が高いので、値段の安いバスにしたのだ。次回お金に余裕が出来た時に船で行こうと思う。(それから四度この地を訪れているがいまだに船に乗っていない) M氏は昆明に列車で行くので、明日はお別れである。 そんな話しをしていると、部屋の外でどやどやと人の足音が響いてきた。続いて部屋をノックする音。 でてみると、そこには数人の公安(日本でいえば警察官)が立っていた。 そして、いきなり部屋に押し込んできた。部屋の中には中国語が飛び交い、それと共に私たちの荷物は隅から隅まで調べられた。 「ここは、外国人が泊まってはいけないホテルだ。知っていたのか」 と強い口調で公安の一番えらそうな男が言う。 大体の意味が男の口調でわかった。 「我不通」(わからない) 私は緊張しながら答えた。 すると、M氏が突然フランス語でぺらぺらと何かまくし立てる。 中国語とフランス語訳のわからない会話が続く。 しまいに、あきれ顔のえらそうな公安が、本来ならすぐに出て行ってもらうのだが、夜も遅いので明日の朝早くに出てゆけ、と言うような言葉を残し引き上げていった。最後に続いて出て行った宿屋のおやじの複雑そうな表情がなんともいえなかった。外国人に開放されていないホテル以外の個人宅やホテルで外国人を泊めると罰則を受けると聞いたことがある。 翌朝早く旅立つ私たちの後ろで悲鳴が聞こえたような気がした。 あの声は朝風呂の悲鳴だろうか、それとも・・・。 |